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神社ヒーリング  山田雅晴著

はじめに、ヒーリングスポット「神社」で″気″を感じてみよう
私たちは人間社会という限られた空間の中で、さまざまな悩みやストレスを抱えています。そういう時は、人間そのものを生かしている大自然の中に帰ることです。天地の息吹を一番身近に感じられる場所、それが神社です。 鎮守の森に入り、よい気に接すると、心が洗われ、気持ちがリフレッシュします。鎮守の森は大自然の生命が凝縮した場所なので、その霊気に接すると人間を癒してくれます。いわば、神社は癒しの空間「ヒーリングスポット」なのです。「神社にいるだけでもいい」 と私たちが感じてしまうのは、古代の人々がその地域で最も「気」のよいところ、
神聖な土地に神社を建てたからです。

 近年、中国の風水という大地の占いがブームになりました。
風水でそのポイントになるのが竜穴″です。
神社は風水でいう竜穴″そのものとは違いますが、古来の神社はその土地のポイントに建てられています。
古代の土地の長老たちは、一種の風水師″だったのです。そして、そこで大自然の神と交流しょうとしました。
 東洋医学では、人体には気のルートとして多数の経絡があるとされ、
そのポイントがツボ〃になります。同様に、大地のツボの多くには神社が鎮座しているのです。
「母なる大地」といいます。神社の参道は産道″であり、神社(お宮)は大地の子宮″なのです。
つまり、神社に参拝すると、母なる子宮に帰ることになるので、
大きくやさしい母親の元に帰ったような気がしてホッとするわけです。
 そして、神社というのは、天地自然と人間をつなぐメディアであり、一種のアンテナです。
ちょうどアンテナがあってテレビの画面にものが映るように、
神との霊流がつながっていて、神社に画面となって映るわけです。
 神社は縄文時代がルーツになっています。縄文人の場合は、
「自然のすべてに霊魂が宿っている、自然が神だ」 というアニミズム (自然崇拝)をもっていました。
 最近は、日本の新聞・雑誌などにもだいぶケルト人の研究が紹介されるようになりました。
ケルト人とはイギリスの巨石建造物ストーンヘンジを作った古代ヨーロッパの民族ですが、
彼らも日本人と同じように自然とともに生きていました。
世界の神話や伝承を調べてみると、不思議なことに、
人類はみなアニミズムの世界観をもっていたことがわかります。
 西洋では、デーバという高級自然霊″が山に鎮まっているとされます。
自然霊とは人類が誕生する以前から存在していたとされ、世界中の神話や民話の中にイキイキと登場しています。
日本にも、木霊や山彦という山の精霊がいます。つまり、森に生命体が宿ると考えるのは万国共通なのです。
 鎮守の森と人間の生命が通い合うと、生命力がよみがえり、パワーアップします。
 私たちは神社というすばらしいシチュエーションをもっているのですから、
憩いのヒーリングスポット(癒しの場)として、もっと活用すべきだと思います。
本書ではそのための超カンタンな方法を紹介していきます。
 また、新体道の青木宏之先生にご足労をいただいて、「新しい時代の森の思考」について対談しました。
その対談に加えて、日本全国の一度は行ってみたい神社・気場コースも付録として載せています。ご一読ください。

第一章神社は“癒し”のワンダーランドだ

●昔の子どもは神社での「遊び」を通して、神と触れ合った
 苦から、神社の境内は子どもたちの遊び場でした。
神社には広い境内、うっそうとした鎮守の森、複雑な構造の社、狛犬、怪しげな像や石碑などがあります。
そこで、かくれんぼをしたり、探検をしたりと、神社はまさに変化に富んだワンダーランドでした。
 春秋のお祭りの時には、子どもたちも笛や太鼓で練り歩いたり、
女の子はきれいにお化粧をしてもらって巫女役をやったり、大人から子どもまで祭りに参加したものです。
 祭りも神社も、そんな時は非日常的な異空間になつているのです。
 獅子や鬼という”神の使い〃も登場します。
私の故郷では、鬼が一軒ずつ家を回り、「ウォーッ!」と雄叫びをあげながら家の中に入ってきて、
疾風のように去っていきました。子どもの頃は怖くて、ドキドキしながら二階に隠れていたものです。
 秋田のナマハゲや裸祭りなど、神社によっては風変わりな祭りもありますし、
お祭りの屋台でお菓子やオモチャを買ってもらったりするのも、ワクワクドキドキの連続でした。
昔の人にとっては、祭りが最大の娯楽であり、楽しみだったといえます。
 お寺と比較して、「遊び」というイメージとなるとやはり神社です。
日本の神は、遊びが好きなのです。「神遊び」といって、特に子どもたちのことが大好きなのです。
 昔の子どもたちは、神社での「遊び」を通して神と触れ合い、そのつき合い方を自然と学んでいきました。
また、子どもはもちろん、大人にとっても、神社の祭りが地域でのさまざまな節目となっていました。
地域のコミュニティとして、神社や鎮守の森は重要な役割を果たしてきたのです。
 最近は、神社で遊ぶ子どもが少なくなってきたのと比例するかのように、
家の中でのファミコンゲームに夢中になり、遊び方や人とのつき合い方も知らない子どもが増えています。
日本の祭りは多種多様で、伊勢神宮の式年遷宮のような敬度な祭りから、
ほとんど遊びとしかいいようのないような祭りまであります。
祭りにつきものの 「おみこし」 にしても、ほとんど遊びのような感覚があります。
 日本の神には、氏子たちが「神を喜ばせる」ことで神威が上がるという側面があります。
「神遊び」をすることによって、神の霊流がより強く流れるのです。
そうして、人々の祈りやお願いごとを聞いてくれるのです。
 そもそも神社は、大自然のミニチュア版といえます。
つまり、大自然の森が鎮守の森であり、
神社のしめ縄は 雲〃をあらわし、しめ縄の前垂れは 雨〃、
紙でできているシデは雷〃です。さらに、しめ縄が二重ラセン状になつているのは遺伝子DNAを示しています。
 鏡は太陽のシンボルです。特に太陽と同じ 形をした円鏡は、神の光を映すものであるという信仰がありました。
神社にある鏡のこと を「真澄鏡」と呼びます。
この鏡は台座(木の支え)によって支えられており、多くの場合、台座には雲のような彫刻がほどこされています。
これは、朝日が雲間からさし昇ってきたことをあらわしています。
日本の代表的な神であるアマテラス大御神は、太陽神で、「鏡の化身」とされていました。
 参拝の際に手を洗い、口をすすぐ手水舎(=御手洗い)は、神さまに会う前に自分のケガレを清める場所です。
昔は神社の近くにある川で体を洗って清めていました。
全国にある「御手洗」という地名や川は、そこが神域である証拠なのです。
 基本的に神社というのは、そばに川があるのが理想です。
しかし、どの神社にも当てはまるわけではないので、手水舎を用意しているのです。
 境内の神池は海や湖をあらわしています。
そして、動物である狛犬や神馬があり、岩山としての磐境・庭園もあります。
このように見ていくと、神社はまさに大自然そのものをあらわしているということがわかります。
 地球を神社に比較して考えると、地球が神社、人間がご神体ということになります。
このように考えてくると、地球の環境もいまのように汚してばかりいないで、
神社の境内のようによく掃除をして清浄にする必要があります。
そして、あなた自身も尊いご神体だと思えば、農薬や食品添加物などで汚してはいけないと考えるようになるでしょう

鎮守の森で、森林浴ならぬ神社浴〃をしよう

 そもそも神社の原初の形態では、神社の本殿やご神体は大自然そのものでした。
奈良県の大神神社には拝殿しかなく、本殿は三輪山となっています。
 日本は山国であり、森林が国土の七割を占めています。
山や森は、もともと強いエネルギー場といえますし、神とはエネルギーを持った意識体ととらえることができます。
したがって、神はエネルギーの場の強い山や森に存在するということです。
 世界最高峰であるヒマラヤ山脈も、地球の造山運動による大きな圧力で形成されました。
これなど、山は大地の力が集中して固まったところというよい例でしょう。
 こうした山や森こそが一番力のたまっている場所だと古代人は考えて、
それらを「神宿る」と表現し、崇拝したのです。
 こんもりとした神社の森は、実は森林浴にはもってこいの場所です。
鎮守の森で、森林浴ならぬ神社浴〃をし、神を感じてみましょう。
神は観念的に考えるものではなく、大自然の中で”感じる〃ものなのです。
 森林浴をやると、フィトンチッドという植物の成分が人間にもよい影響を与えることが知られていますが、
”神社浴〃では神気があなたによい影響を与えてくれます。
 最近は気功が日本人の間でも定着し、森の中でその気を摂取する「樹林気功」も静かなブームになっています。
実は、神道と、中国の気功の元になっている道教とは、いわば親戚関係に当たります。
根っこは同じで、中国大陸で花開いたのが道教で、島国日本で発展したのが神道というわけです。
 神道はシンドウゥと濁らず、「シントウ」と発音します。
これは、道という言葉が道教の”タオ〃から来ているからです。
タオには 「太極」という意味があります。
だから、神道はシンタオであり、そういう由来でシントウというわけです。
 また、神という字は分解すると「示す」と「申す」になります。
つまり、神は人間に対して、大自然などのいろいろな働きを「示して申す」存在だということです。
そして、人間にとっては目に見えない上〃の存在で、人間に語る存在というわけです。
 もともと、神道という言葉はありませんでした。
仏教が日本に入ってから、神道という言葉が出てきたのです。
神道というのはあくまでも便宜上付いた名称で、神道は日本人の日常生活そのものだったので、
それまでは名前すら無かったわけです。
 あえていうなら、神ながらの道″になるでしょうか。
神ながらとは神そのものの〃神とともに〃”神のまにまに″などの意味になります。

神道のカミとは大生命〃という意味

 神道では、神とは万物を生かす隠れた霊性″という意味です。
カミの「カ」は隠れた、目に見えない、ということであり、
「ミ」は「霊性・身」という意味で、それが縮まってカミになりました。
目に見えない生命力、大生命体をカミと定義したわけです。
 神道では大自然が教祖であり、教典であり、教義です。
それをどう解釈するかは一人一人違います。
ある人は恵みを与えるものだととらえるし、災害にあった人は自然は怖いものだととらえるでしょう。
大自然そのものに、いろいろな顔があるということです。そういう意味ではいろいろな神々がいるのです。
 人間が、そういう霊的な存在を神として認識したわけです。
霊性を感得して、それを神と名付けたのです。
どうして気づいたかというと、人間に神と同じ霊性が宿っているからでしょう。
 日本の場合の神とは、大自然そのものであり、人間も大自然の一部なので、人間も神ということになります。
人間は肉体という限られた器をもった存在で、「限り身」のカミになります。
そして日本では、生きとし生けるもの、地球の中にあるものはみんな本質的には同じで、
役割とか働きにおいてのみ違うととらえられてきたのです。
それは動物だけでなく、植物や鉱物にもすべて当てはまります。 
 私たちの祖先は、自然の働きを見て、それに神の名を付けました。
たとえば、太陽のことを天照大御神と呼びました。
これは「天を照らす大きな尊い神」ということで、太陽にぴったりの名前です。
山の神は大山積神ですが、これも説明するまでもない名前でしょう。
 その山の神の娘に、石長比売と木花佐久夜比売という岩石と花の神がいるのも、考えてみれば当然のことです。
つまり、「働きをしている存在に対して、そういう名前で呼ぶ」ということがよいと思います。
 おもしろいのは、古代になればなるほど、どの民族にも多くの神々が存在することです。
どうしてかというと、古い時代ほど地球のどの地域にも森林が多く、自然が豊かでした。
森林が多いと、多くの神々が存在します。川も山もあり、森もあれば、
そこに神宿るというアニミズムになるわけです。
 大自然そのものが神であるとすれば、「神は唯一か、この神はどのような神か」
 などといった神観や神格論争はなくなるでしょう。論争になりようがありません。
 つまり、あまり頭で考えた神にしないことです。頭で神をこねくりまわすのではなく、
「自分たちを生かしている存在を拝む(感謝する)」 ということでしょう。
 これは、キリスト教のゴッドという神とはまったく概念が違います。
日本人が死んだ人 を神として祭るのは、ゴッドとしてではなく、隠れた霊性だからなのです。
 明治時代に、キリスト教のゴッドを「神」と訳したのがそもそも間違いだったのです。
キリスト教が安土桃山時代に入ってきた時には、神のことをデウスといっていました。
その方がよかったのです。おそらく訳した人が、日本の神とゴッドの区別がわからなかったのでしょう。

鎮守さま・産土の神・氏神さまの違いと働き

 ここで、私たちにとって最も身近な神社、鎮守さま、産土の神、氏神さまについて話を進めていきましょう。
いまはその三つが混同されてしまっているのが現状ですが、改めて、ここでそれらの違いを説明しておきます。
「鎮守さま」は現住所の守り神であり、「産土の神」は私たちが生まれた土地の守り神です。
つまり、生まれた所にずっと住んでいる人にとっては、産土の神が鎮守さまということになります。
 ところが、引っ越しをすると生地の神ヒ現住所の神が違うことになります。
したがって、産土の神は一生変わりませんが、鎮守さまは引っ越しをするたびに変わることになります。
 たとえば、あなたが生まれた所に鎮座する神社が天祖神社だとすると、産土神社は天祖神社になります。
その後、引っ越しをした所の神社が高島神社だとすると、鎮守さまは高島神社ということになります。
昔は転居の時は、きちんと産土の神にごあいさつをしたものです。
そうすると、産土の神とその土地の鎮守さまには 神どうしのネットワーク〃がありますので、
「うちの氏子の00がそちらに引っ越ししますから、よろしくお願いします」
「そうですか、わかりました。お任せください」 というように話が通るわけです。
 ウブスナの語源は「産砂」で、海の民の出産の民族習慣から来ています。
彼らは、砂浜に産屋という女性が子どもを産むための簡単な小屋を作って、そこで出産していました。
ちなみに、生まれた子どものことを「産子」と呼んでいました。
「うぶな娘」などのうぶ〃に、その言葉の名残があります。
産土の神は私たちの誕生にかかわるだけに、生死をつかさどり、人生を助けてくれる神です。
そのため、日本人は産土の神を昔からたいへん大事にしてきたものです。
 古来の神社は、その土地の土着の自然神を祭ったものでしたが、
その後、人間が神話に則って神名を与えたケースも出てきました。
土地の名前をとった神も多く、神話に登場しない神もいます。
『古事記』や『日本書紀』(まとめて「記紀」といいます)に出てくる神々は、実はごく一部です。
記紀は中央の大和朝廷が編纂したものなので、地方にはそれに出てこない神がたくさんいます。
それを示しているのが、記紀以外のもの、『風土記』や各神社の古文書です。
これらの文書には記紀に出てこない神々が登場します。
一方、鎮守さまには、事業とか商売、取引とか現在の生活に必要なもの、
大切なものなどをお願いするとよいでしょう。
 三つ目の、氏神さまとは、氏族にとっての祖先神です。
たとえば、大伴氏だったらアメノオシヒ′命、尾張氏だったらアメノホアカリノ命になります
自分の先祖の元になる神さまが氏神です。昔だったら屋敷神ということで、邸内に小詞を祭っていました。
氏神さまは土地に関係なく、その一族を守護しています。
 昔は阿波とか丹後などのように、いくつもの国に分かれていました。
それぞれの国で最も代表的な神社が「一の宮」です。
多くの場合、「一の宮」はその国のクニタマを祭っています。
図書館で郷土史を調べれば、それがどこかすぐにわかります。
 このようにみてきますと、私たちにとって最も大切なのは、産土の神・鎮守さま・氏神さまということになります。むやみにどの神社にも参拝するのではなく、まずは産土の神・鎮守さまを大切にするということです。
鎮守さまや産土神社の次は、自分の住んでいる場所の「一の宮」に参拝するというのが基本的な順序になります。

第二章 “癒し”のための神社ユニーク活用法

●拝殿に到着するまでに「鳥居・水・鈴」でミソギハライをする
 神社に参拝する時は、まず鳥居をくぐります。鳥居をくぐる時には軽くおじぎをします。
鳥居は結界としてのオーラを放射しているので、この時に鳥居のオーラ(霊気)でミソギを受けているのです。
 鳥居は見えない扉としてバリアーとなり、
邪気(マイナスのエネルギー)が聖域に侵入するのを防ぐ結界になつています。
また、本当によい鳥居からは、きれいなオーラが出ていますので、参拝する人を清めてくれます。
それが外界の邪気を防ぐのです。
 日本のような完全な鳥居ではありませんが、東南アジアや中南米にも、鳥居と似た結界をあらわすものがあります。結界の目印を作ろうとすると、鳥居のようなものになるのでしょう。
鳥居のほかに、しめ縄も神のいます結界を示すものです。
 鳥居は中央ではなく、端をくぐります。参道の中央はr正中」と呼ばれ、
神さまの正面に当たるので、そこを避けて歩くわけです。
 鳥居には宋色とか赤でけばけばしく塗ったものがありますが、
あれはお稲荷さん系の神狛犬は神社を守る番犬社の鳥居です。
古代になればなるほど、色はついておらず、木の素材そのものを生かしています。
後世になつて、仏教や道教の影響を受けて、色彩が派手になってきました。
 鳥居をくぐると参道が続きますが、この時も正中線を避けて、正面ではなく端を歩くようにしましょう。
 神社の境内にはたいてい対になつた狛犬があります。狛犬は神社を守る番犬です。
稲荷神社の場合は、狛犬の代わりに狐になっています。
 稲荷信仰が活発になつたのは江戸時代のことです。当時は自然が豊かだったので、狐も身近な存在でした。
それで、狐を神の使いとしたわけです。
 日本人は昔から、動物を神の使いとして大 事にしていました。
出雲大社では竜蛇神のシンボルとしての海ヘビ、
春日大社や厳島神社は鹿というように、動物を神の使いと考えたのです。
埼玉県の三峰神社では狼を「大口真神」として崇めました。
 神の使いとみなすことによって、人間と動物の共生をはかったのでしょう。
神の使いとなれば、その動物をむやみには殺せません。
神社には絵馬がありますが、これも神社に馬を奉納していた名残なのです。
 参道の横に手水舎があります。
時々、ひしゃくに直接ロをつけて口をすすいでいる人を見かけますが、これはマナー違反です。
手水の作法は、次の通りです。
@右手に持ったひしゃくで水をくみ、まず左手を洗います。
A左手にひしゃくを持ち替えて、右手を洗います。
B右手にひしゃくを持ち替え、左手で水をすくつて、口をすすぎます。手ですくつてから口に含みます。
C最後にひしゃくを縦にして、クルクル回します。こうして自然に水が柄を伝わって流れるようにし、
 ひしゃくについた手垢を洗い清めるのです。
拝殿の前では、ほんの少し正面から横にずれて立ちます。鳥居と同じように、神さまの 36
正面に当たるので、そこを避けるわけです。        
拝殿には鈴があります。鈴はガランガランと二回鳴らします。
これは、鈴の音霊で清めると同時に、神さまをお呼びする意味もあります。
ちなみに、夏の風鈴は「チリーン、チリーン」という高音で、邪が入らないようにしていますが、
ぞれは神社の鈴も同じことです。
鈴の持つ高音にはお祓いの力があり、社殿の中に邪が入るのをシャットアウトするわけです。
 鈴は、自己のケガレを祓っていただくという気持ちで鳴らしましょう。
 お賓銭は投げつけず、そっと入れるようにします。
お賽銭とは神さまからいただいている恵み(神徳)に対して、感謝の気持ちをあらわすものです。
気をつけたいのは、お賽銭の金額と開運とは必ずしも正比例しないということです。
お賽銭は幸福を買うための料金ではなく、感謝の想念を形にしたものであることを忘れないことです。

神社には大自然霊を祭った神社と、人間を神として祭った神社がある

 神社には大きく分けて、大自然霊を祭ったものと、人間を神として祭ったものの二つがあります。
人霊を祭った神社のご祭神と大自然霊を祭った神社では、神力からいったら、自然霊の方が圧倒的に強いのです。
「では、人霊を祭った神社は、祭神としてのパワーがないのか?」
 というと、そうではありません。    
 明治神宮の明治天皇や天満宮の菅原道真公のように、人霊でも力のある神さまもいらっしやいます。
天満宮の菅原道真公のように、死んでから千年以上もたつと、パワーが強い神になるのです。
おもしろいのは、ご祭神の神徳は時代とともに上がっていき、また、いろいろな神徳が出てくることです。
神も時代に応じて成長するのでしょう。人間も成長しますが、神も成長するのです。
 また、人霊の神の場合、自分でできそうにない願いごとをされると、その上の神に取次ぎをしてくれます。
その上の神というのは、その地域の管轄の神です。
「この願いはこつちの大神さま、あの願いはあっちの大神さま」というように振り分けるようです。
 ただ基本的には、人霊の神にあまりいろい頼むのは、むこうがたいへんかもしれません。
したがって、お願いごとをするのは主に高級自然霊の神さまの方がよいでしょう。
 神社参拝の基本は、自分の住んでいる鎮守さまや、ふるさとの産土神社にお参りすることです。
 それから、自分にとって相性のいい神社に参拝することも大切です。
自分の産土の神と同じ系統のご祭神をもつ神社は、相性がいいことが多いようです。
 神社とは、「場」 のパワーで自分をリフレッシュするところです。
参拝の姿勢は、日々生かしていただいていることへの感謝です。
とはいえ、参拝した以上、何かお願いごとをしたくなるのも人情です。
 そういう場合は、ご利益だけいただこうというのではなく、
「ごあいさつに参りました。自分は頑張ります。どうか見守っていてください」
 という気持ちで参拝するとよいでしょう。

第三章 古神道は“癒し”の生命哲学

 ●宗教の創造神観〃と、古神道の生みの神観〃
 神道の大きな特徴は生みの神観〃です。
最初に高天原という「場」があり、そこに宇宙神・アメノミナカヌシノ神が生まれます。
『古事記』に「高天原に成りませる…」とあるのは「鳴り響いて生まれた」ということです。
最新の科学によって、「あらゆるものが波動である」ということがわかっています。
あらゆるものが振動しているのです。光も粒子であって、波動です。
そして、次にタカミムスピノ神(陽神)とカミムスピノ神(陰神)という陰陽のムスビの神が生まれます。
 それから、神が神をどんどん生んでいき、地球を生み、万物を生み、人澗を生みました。
「生んだ」わけですから、すべて同質です。ただ、大きさや次元、役割が違うだけの話です。
 つまり、こういうことです。親が子どもを生んだら、その子は人間に決まっています。
「大人になりたくない」 というピーターパンシンドローム(症候群)の子どもはいても、
「年をとったら、大人になれるかな」と悩んだりはしません。
 二十歳になれば、大人になるに決まっています。
それと同じで、神から生まれたから人間もまた、神なのです。
ただ、人間が”大人の神〃になるには、まだ時間がかかります。
いわば、「未成熟の子神」というこどです。
未熟な神なので、立派な神になるように現世でトレーニングをしているという感じでしょうか。
 多くの宗教が創造神観″に立脚しています。つまり、「神が人間を造った」という考えです。
これですと、ロボットが永久に人間になれないのと同様に、人間は永遠に神になることはできません。
 また、「造られた物」ということから、「造られた物はいつかは壊れる(滅びる)」という思考になり、
そこから終末的世界観も出てくるわけです。
 ところが生みの神観″では、神と人間とは温かい親子関係になり、生あるものだから、
寿命はあっても、子々孫々続いていきます。また、自分も再び生まれ変わってきます。
一つ一つがずっとつながっていって、永遠の連続性があるわけです。
 さらに、生みの神観〃では、親がかわいい子どもを滅ぼすはずがないという安心感があり、
決して終末論にはなりません。そして、「子神」と考えれば、人間に無限の可能性が生まれてくることになります。
 この二つの神観のうち「どちらが真実か」が問題なのではなく、
「どちらが人間の安心立命や心の成長にとってブラスになるか」 ということで考えた方がいいと思います。
 私個人は、古神道の 生みの神観〃のとらえ方が、明るくポジティブで、無限の可能性があるように思います。
そして実は、古神道の癒し〃の生命哲学は、ここからスタートしているのです。
”生みの神観〃を実際に体現しているのが神社です。
というのは、日本神話を 血脈〃として受け継いでいるからです。
 たとえば、出雲大社の国造(出雲大社では宮司のことをこう呼びます)の千家家は、
初代のアメノホヒノ命という神から、現在で八十三代目になります。
一代を三十年としても、二四〇〇年以上家系が続いていることになります。
一方、熊本県の阿蘇神社の宮司は九十一代目です。
このように、神話と現代がそのままつながっているのが、日本神話の特徴なのです。
 ギリシアとかエジプトなど、世界各地に神話は残っていますが、あくまで神話は神話として、
現代という時代とは離れているのが普通です。
そんな中にあって、神話がそのまま血脈として残っているのが、
日本神話やネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)の神話なのです。
これは世界的に見ても、珍しいケースだといえます。
 そういう意味では、神社というのは神話を受け継いでいる、貴重な文化遺産だといえます。
これは、実は日本がほかの民族から侵略されなかったことが大きく働いたのです。
現在、各民族の間で、心の拠り所として、それぞれの神話を復興させる運動が盛んになってきていますが、
ここまでの話からもわかる通り、日本はそのモデルケースになることができる立場にあるのです。

古神道は、自分をあるがままに受け入れー空しとから始める

 古神道では、人間には神のワケミタマ(分心)としてナオヒ(直霊)が宿っていると説きます。
このナオヒは内在の神〃であり、水晶のように清らかで、光輝いています。
現代風の表現を使えば、高次元の自我(真我である「ハイアー・セルフ」ということに,なります。
 そこで、そのナオヒを本来の姿としてあらわすために、[自霊拝」と呼ばれる鏡を使った行法があります。
つまり、鏡に映る自分の姿を通して、ハイアー・セルフに向かって拍手を打って拝礼し、合掌するという方法です。
詳しくは次の章で説明するとして、ここではそのコンセプトだけ、紹介しておきましょう。
 これは倣慢になつたり、自己を過大に評価することでは濁りません。
自己に秘められた神性を自覚することなのです。
 その第一段階として、まず「自分をあるがままに受け入れること」から始めます。
ハイアー・セルフが光輝く水晶球だとすると、円鏡(神社にある丸い鏡)はそれを平面にしたものです。
鏡を使うと、イメージがたいへんつかみやすくなります。
鏡は姿そのままを映すだけでなく、人間の心をも映します。
明るい時は明るく映り、自分の心が暗くなつている時は暗く沈んだように映ります。
つまり、すべてがあるがままなのです。
 私たちが幸福になれない原因の一つは、自分自身がイヤで、許せないからです。
新聞の相談コーナーを見ると、よく「自分がイヤでイヤでたまらない」と自己嫌悪に陥っている相談を見受けます。
それも、まだこれからという若い世代にそういう相談が多いようです。
 人間は、自分が好きな人(恋人、夫妄、子ども)には幸福になつてほしいと願いますが、
きらいな人にも幸福になつてほしいとは、なかなか思ゝえないものです。
それと同じよぅに、自分のことがきらいだから、心の底から幸福になりたいと思えないのです。
幸福になりたいならば、まず自分を好きになることから始めてください。
そして、自分を好きになるためには、まず自分を許すことです。
自分を許せないのは、いやな自分、欠点の多い自分、悪いことをした自分、
そういう汚れの多い自分が、本当の自分だと思っているからです。
しかし、それはきちんとその実体を見ていないからであって、錯覚しているのです。
よく見れば、自分自身が汚れているわけではなく、単に汚れがついただけだということがわかるでしょう。
鏡というのは、汚れやホコリがつくと目立ちます。目立つということは、気づきやすいということです。
しかし、実は汚れはあくまでも表面についているだけで、本体の鏡とは関係ないのです。
それは、あなたの汚れも同じです。
そのことに気づけば、自分をあるがままに受け入れることができるようになつてきます。
 向上心がある人ほど、自分の汚れに気がつくものです。年末の大掃除で窓をふいたりすると、
ふだんはそれほど汚れていると感じなかったのに、「こんなに汚れがたまっていたんだ!」と驚きます。
 これと同じように、自霊拝を行っていると、いままで気づかなかった汚れに気づくようになります。
でも、それはハイアー・セルフを包んでいるだけですから、その包みをはがせばいいのです。
 その包みのことを「罪」といい、ケガレといいます。
この行法で、ハイアー・セルフをおおっているヨロイをはずしてしまえばいいのです。
 自分のハイアー・セルフを包んでいる心の汚れがわかってきたら、
「いま、きれいになっている途中だ。だんだんきれいになつている」と素直に喜べばよいのです。
そうしているうちに、心の鏡に映った「あるがままの自分」を好きになり、自分を愛せるようになつていきます。
「アイニフィク・ミー」「アイエフブ・ミー」になるのです。
 この行法をやっていると、だんだん自分のことが本当に好きになつてきます。
「自分の本質はこんなにすばらしい存在だつた」 ということに気づいてくるのです。
 すると、本当の意味で自分自身を大切にするようにな包ますし、
日常生活もよりすばらしいものにしようと思うようになります。
そうすると、自分のハイアー・セルフが潜在意識に働きかけて、自分を幸福へと導くわけです。

「祓い」とは自分の「心の鏡」についたホコリを払うこと

 ハイアー・セルフを常に「きれいにする」ことが大事です。
清浄なハイアー・セルフをェゴで包む(積む)ことをツミ(罪)といいます。
「包み」「積み」だからツミなのです。
日常生活の中でくつついてしまったホコリを取るのが「祓い」です。
罪をミソギ、ホコリを祓ってきれいに磨いていけば、本来の光輝くハイアー・セルフがあらわれます。
カガミの真ん中のガ(我=エゴ)を取ると「カミ(神)」になるでしょう。
きれいにすることにより、本来の自分に戻れるのです。
 真言密教の開祖である弘法大師・空海は、悟りの境地を「入我我人」といいました。
これは、仏の中に我が入り、我の中に仏が入るということです。
このハイアー・セルフの行法は「入我我人」に通じます。
 古神道ではまた、「魂とは心神である」としています。
どういうことかというと、人間は修行して神になるのではなく、
この身このままが神だということを自覚して神の行いをすれば、すぐにそのまま「神」ということです。
 祓いとは、外面についたケガレをクリーニングすることになります。
掃除するとき、ホコリを「払う」というように、外に付いてきた汚れをきれいにするのが「祓う」なのです。
つまり、自分の「心の鏡」についた曇りを磨くことこそが祓いなのです。
 自分の心の鏡を磨くと、大自然の息吹やリズムを感じることができるようになります。
そのリズムに自分の運命のリズムをあわせれば、運命の扉が大きく開いて、
そこからハイアー・セルフという生命の光が輝き、伸びやかに生きることができるようになります。
 前述のように円鏡は太陽のシンボルでもあり、心の鏡についた曇りというのは、
ちょうど太陽に雲がかかっている状態なのです。
エゴという雲をハライキヨメルと、本来の太馳がさんさんと輝きだします。

ミソギとは心のアカスリ〃だ

神道で代表的な概念に「ミソギ」があります。ミソギといえば、政治家がよく使う言葉です。
 不祥事を起こした後、しばらく謹慎してから、「ミソギはもうすんだ」などといって、
また活動を始めたりします。
 しかし本来は、ミソギというのは「身削ぎ」で、身とはいっても、ミタマの垢を削ぐことです。
いわば、自分の我欲の心から出たアカ″を削ぎ落とすのが、ミソギなのです。
今風にいえば、ミソギとは心のアカスリ″だというとピッタリきます。
 ここ数年来、韓国のアカスリが日本でブームになりました。自分でもびっくりするくらいアカがいっぱい出て、
「こんなにアカがたまっていたんだ!」 と驚く人が多いといいます。
アカスリをしてもらゝつと、 見た目にはきれいな肌に見え、自分でもよく洗っているつもりでも、
実はしっかりとアカがたまっているのです。
そして、意識して磨いた時に、やっと自分がいかに汚れていだかがわかるのです。
 アカスリをすると、毛穴をおおっていた汚れがとれて、ツルツルの肌になります。
皮膚の新陳代謝が活発になけ、健康にも美容にもいいのです。
そして、気持ちもさっぱりとして、リフレッシュできます。
 体のアカスリをするように、心のアカスリをすることが、「ミソギ」というわけです。
ミソギをすれば、本来の自分が輝いてきて、生命力がよみがえるのです。
 ミソギの起源は、神話のイザナギノ命とイザナミノ命の物語に由来します。
日本の国生みが終わり、最後にイザナミが火の神を産みます。
ところが、それが元でイザナミは死んでしまい、黄泉の国(死後の世界)へと行くのです。
 その後、一人残されたイザナギが寂しさのあまり、イザナミを連れ戻しに黄泉の国へ向かいます。
そこで、「決して私を見ないでください」とイザナミからいわれたのに、
その約束を破って、醜くなってしまったイザナミの姿を見てしまいます。
怒ったイザナミに追いかけられながら、イザナギは黄泉の国を脱出します。
実はそこから、「ヨミガエル(黄泉帰る)」という言葉ができたのです。
 イザナギはヨミの国から帰った後、アワギハラというところで水につかってミソギをします。
その時に生まれた「祓戸の四柱の神」がミソギの神ということになります。
ミソギ して生まれた祓戸大神たちが、今度はミソギをしてあげる神になつたわけです。
 ミソギが終わって最後に生まれたのが、
アマテラス大神、ツクヨミノ命、スサノオノ命という「三貴神」と呼ばれる神々です。
ここには、心身をミソギしてきれいにし、新たな生命力に復活した後にこそ、
一番貴いものが生まれるという思想が隠れています。
 つまり、ミソギとは、まさに生命復活の秘法といえます。
単に、きれいにして元の状態に戻るというだけではなく、
新たにレベルアップするという積極的な意味を含んでいるのです。
  ミソギとハライを端的にあらわすのが、次の楔祓詞です。
最もポピュラーで、力のある言葉ですので、日常生活や神社参拝の時に唱えるとよいでしょう。

「見直し聞き直し」でヨミガエリを果たそう

  神道には「見直し聞き直し」という思想があります。
これは自分のおかした罪を反省し、その原因を見極め、もう一度やり直すということです。
 イザナギノ命がミソギをした時に、
ヤソマガツヒノ神(八十禍津日神)とオオマガツヒノ神(大禍津日神)という神が生まれます。
この二神は、その名前からもわかる通り、曲がった状態だということをはっきりと示す働きをする神です。
 日本神話には完全な悪は存在しません。
神道では「悪」の代わりに、「禍」とか「曲津」、「邪」という言い方をします。
つまり、本来はまっすぐだったものが、途中で方向が曲がってしまっただけだ、という考え方です。
タテに行くべきところがヨコになってしまったから、ヨコシマ(邪) になるわけです。
 その後に、カムナオヒノ神(神直日神)とオオナオヒノ神(大直日神)という神が生まれます。
この二神は曲がった状態をまっすぐにして、本来の直日(直霊)に戻す働きをする神です。
いわばこれらの神は、「見直し聞き直し」をつかさどる神々です。
つまり、イザナギは約束違反を反省し、元の直日の状態に戻ったことをあらわしているのです。
 さて、曲がったことは、もちろんよくないわけですが、
本人そのものが悪だとはとらえていないことに注意してください。
日本では「あいつはワルだ」という場合、問題はいろいろあるけれども、見込みがあるというニュアンスも含みます。悪人というのは、マイナスの方に向いているから悪人になつているだけで、
プラスの方に意識が向けばちゃんと立派になる、という考え方です。
日本では、善悪というのは、そういう意味で「方向性」だととらえています。
それどころか、「大悪党が改心すると大聖者になる」 といわれるように、
魂の大きい人が大事をなし遂げるパワーがあるということです。
善人といっても、いつもいつもよいことばかりしているわけではありません。
たまには人の悪口をいうこともあるでしょう。そして、小さいことでクヨクヨ悩んだりもします。
案外、善人と呼ばれる人の実態は、小市民、小人だったりすることも多いのです。
 言霊には必ず表と真の意味があります。
マガという言葉には、曲がっているという意味と同時に、動いているという意味もあります。
裏の意味が「禍」で、表は勾玉のマガにもなるわけです。
 どういうことかというと、まっすぐなままではエネルギーは動きません。
いわゆる渦巻きというか、ラセンになるからこそ、エネルギーが動くのです。
そう考えていくと、曲がっていること自体は絶対的な悪ではなく、
人間の成長の中で起きることだということがわかります。
 古神道で善悪をはつきりと分けないのは、生命を生み、育て、再生させることが目的だからなのです。
 私が開運カウンセリングをしていて痛感するのは、
人生というのは善悪という基準では解決できないことの方が圧倒的に多いということです。
善悪という基準に縛られると、相手の立場になつてのカウンセリングは到底できません。
 たとえば、離婚の相談の場合、離婚そのものは決してよいことではありませんし、
私としても、もちろん勧めたくはありません。
しかし、話を開いていると、結婚生活を続けていてもお互いが傷つけ合って、とても本人の心の成長にならない、
と判断せざるを得ない場合もあります。
 また、不倫の相談も少なくありませんが、
「そんなのすぐに別れてしまいなさい」と一概に責められないことも多いのです。
 ちょっとした浮気ならともかく、「別れなさい」とこちらがいってすぐに別れられるような人なら、
最初から不倫などしないものです。
やはり、一人一人の人生にはそれまでのさまざまないきさつがあり、重みがあります。
まずはその人の人生を受容してあげるということも必要なのです。
 その上で、相談相手に、いかに自分の人生を「見直し聞き直し」させるか、
その人の生命を生かし、どうヨミガエリを果たさせるかという観点をもたないと、
血の通ったカウンセリングはできません。
 ヨミガエルためには、いったん自分の内面を見つめなおし、反省しなければなりません。
 これを古神道では物忌み〃といいます。
物忌みは、自分の元に戻って、蓄えて、ヨミガエルための儀式です。
イエス・キリストの再臨も、実はヨミガエリなのです。
 日本人には昔から、「謹慎」「蟄居」、座敷牢などというように、悪府をした時に、
一度自分の身をかがめるという考え方があります。
しかしこれと違って、古神道でいう物忌みとは、ただ単に反省するだけという消極的な意味ではありません。
ミソギハライをして、充電をして力を蓄え、そして再出発するという、積極的な意味あいを含むのです。
いわば、ヨミガエリのための充電期間のようなものです。
 ここがまたおもしろいところで、単に身をかがめるより、
ヨミガエリの方が実は結果的にはステップアップできるのです。
一度失敗したらダメになるどころか、正にも邪にも強くなつて、さらに力を増して帰ってくるというのが、
古神道の考え方なのです。
●疲れ目に(花粉症にも)
目の疲れを取るには、塩をつけた手でまぶたを軽くマッサ−ジする方法と
1カップのぬるま湯に小さじ4分の1の自然塩を溶かした塩水で十回ほどまばたきさせ、
そのあと真水で洗浄して塩を洗い流し、瞳を刺激する方法があります
塩水が眼球の周囲にある余分な水分を調整し、血液の流れを正常な状態に戻してくれるため、
花粉症に悩んでいる人にも効果的です。

●肩こり
肩こりには下半身の冷えが影響していることもあります。
冷えを我慢しているうちに肩に力が入り、こりが進むということも考えられますし、
下半身が冷えているために逆に余分な熱が肩にたまり、肩こりの原因になっている場合もあります。
こんな人には、入浴時に首から肩、腕にかけて自然塩を塗り、
痛みのある部分を重点的に首から徐々に下方向に向けての塩マッサ−ジをすると血行がよくなります。

●歯磨きに
歯槽膿漏の症状がある人は、歯ブラシを水に濡らして自然塩をつけ、三分ほどじっくり歯磨きをします。
塩の刺激で歯茎が引き締まり出血しなくなり、
細菌が繁殖しにくくなるので、虫歯の予防にもなります。

●神経痛・腰痛
神経痛やリュウマチは、冷えがおもな原因とされています。
湯船に入浴剤の代わりの自然塩を溶かした「塩湯」に暖まり、
湯船から出てとくに関節などの痛みの強い部分をマッサ-ジして体質を改善させます。
また、腰痛の原因は腰の酷使によるもののほか、内臓の病気が影響していることもありますので、
原因を確認することが第一ですが、
一般的には入浴時に腰部を十分温めたうえ
腰から太もも、ひざ、足首にかけて、上から下に押し下げるような感じでの塩マッサ−ジが効果的です。

●頭痛・抜け毛予防
頭痛の原因は人によっていろいろですが、
頭部(とくに頭皮)のたまった余分な水分が血液の流れを悪くしていると考えられます。
まず、湯船に入りほどよく汗を出し、普通に洗髪してひとつかみの自然塩を頭痛のひどい部分に重点的に
地肌にすり込むようにマッサ−ジするのがポイントです。
水に溶ける前の塩の結晶は固いので、手のひらと頭皮で塩を溶かすようにゆっくりすりこみ、
1〜2分ほどおき、お湯で洗い流します。塩マッサ−ジは、頭皮の新陳代謝を促し、
余分な脂を取り除き、抜け毛、フケなどを防ぐほか、脳の血液循環をよくし、ストレス解消の効果にもなります。

●皮膚病・アトピ−
塩には殺菌効果があり、皮膚の下にある余分な水分をはき出す働きがあります。
体内から水分が排出されると体液の調整や血液の循環がよくなり皮膚にたまった老廃物も排出され、
皮膚病の予防や治療になります。
アトピ−性皮膚炎の症状を軽減するには、身体の皮膚の表面をきれいにしてから、
コップ1杯のぬるま湯に小さじ1杯程度の自然塩を溶かし患部につけます。
刺激が強い場合は、少しお湯を足して調整します。
毎日行うことで、慣れてきた場合は、濃度を最終的には、約500CCのお湯に小さじ10杯まで高めれば十分です。そのうち患部の状態が落ち着いて着ましたら、自然塩を直接つけても大丈夫な程に回復します。
また、ニキビや膿まで出ているおでき、
じゅくじゅくした水虫には自然塩で直接患部を洗う方法や塩をフライパンなどで炒って、
布や紙の袋に入れ、暖まった状態のまま顔や患部にあてる方法もあります。
また、同時に塩の刺激でかゆみもとまります。

●洗顔
自然塩を手のひらに少量とり、水で軽く溶かします。ある程度塩が溶けたら、
もんだりこすったりしないように顔に軽くたたきながら塗りつけます。
20秒〜30秒ほどそのままにして、塩の成分を皮膚のなかに浸透させた後、
お湯で塩を流しとり、最後に冷水で洗います。
塩は、皮膚の脂や水分を抜き取り、その部分を引き締める機能を持ち、さらに、殺菌効果もあります。

●風邪の予防
自然塩を溶かした水、または、番茶に小さじ1杯の塩を溶かしてうがいをすると風邪の予防になります。
のどの粘膜にこびりついたバイ菌を塩が殺菌してくれますので、
塩分を含ませた脱脂綿などで鼻腔の部分も洗浄すれば、花粉症で、悩んでいる人にも効果的です。
また、風邪は体の冷えが原因となって生じる可能性が高いので、塩を使っての乾布摩擦や、
マッサ-ジを行うと、体を自然で良好な状態に保ってくれますので、風邪も未然に防ぐことができます。
風邪をひいた場合には、湯船に自然塩300gほど溶かした「塩湯」の半身入浴方で、
下半身の冷えを取り除くと同時に血液の循環を高める効果があります。

●下痢・腹痛・便秘
冷たいものや水分を必要以上に摂取すると、下痢のほか冷え性、女性の場合は生理痛の原因にもなります。
冷えやすい人は、体を温める働きがある食事をすることが、大切です。
下痢の症状を改善するためには、下腹部を中心に、背中から下半身にかけてマッサ-ジをして下さい。
また、塩をフライパンで炒って布や紙などに包んで下腹部にあてる「塩パック」が体温を上昇させますので、
下痢の腹痛や、下痢のもととなる寝冷えなどにも効果があります。
さらに、下腹部に加えて、手足の塩マッサ-ジや、朝起きたときの一杯の塩水を飲むと便秘も治せます。
下痢や便秘を繰り返すと、痔の原因にもなりますので、自然塩をぬるま湯に溶かし、
患部に2〜3分ほどつけ、お湯で洗い、最後に冷水で流しますと、
塩の殺菌効果で患部を清潔に保つ役割も果たしてくれますので、しもやけなどの血行障害も治すことができます。


●冷え性
身体全体の血行障害からくる冷え性は、血行をよくする、足浴で悩みを解決することができます。
バケツなどに40〜42度のお湯を用意して、ひとつまみの自然塩を入れ、お湯の温度を調整しながら、
上半身が少し汗ばむくらいまで、足だけを暖めます。塩湯の中で、足の指をマッサ-ジするとより効果があります。

●ダイエット
人間の体の60%以上は、水です。
ところが、太りすぎの人の場合、この水分バランスが崩れていることが往々にしてあります。
体の中の水分や老廃物が増えると、血液のめぐりも悪くなり、高血圧の原因にもなりかねません。
ダイエットは、この余分な水分や老廃物をいかに排出するかにかかっているとも言えます。
まず、自然塩を入れた湯船に入って体を温め、十分に汗を出します。
次に、健康タワシに自然塩をつけて、腹部を左回りに15回、右回りで15回こすります。
続いて、塩をガーゼにくるみ、そのガ-ゼで10分ほど、ていねいに全身をこすります。
今度はじかに塩を肩から胸、腰、足の付け根からひざ、
くるぶしへと上半身から下半身の順序でもみ込んでいきます。
とくに足の裏は体のツボが集中する場所なので、多めの塩でマッサージをして下さい。
排出された老廃物と塩を湯で流し、もう一度湯船に入り、十分体を温めたら、冷水を浴びて皮膚を引き締めます。
風呂と塩マッサージで大量の汗をかくと、のどが乾きますが、
体全体が乾いているところに新たな水分が入ってくると、体は必死でその水分を貯蔵しようとしますので、
風呂上りのビ-ルは、ダイエットには大敵です。
この場合、暖かいお茶などを少量飲んで乾きをいやすようにします。
塩マッサ-ジをしばらく続けていれば、体重を確実に落すことが出来ます。
同時に、塩もみの効果で体全体の肉も引き締まってきます。

●虫歯や歯槽膿漏の予防
少量の塩を指先にとり、とくに歯肉につけてマッサージするような気持ちでこすると、より効果的です。
塩歯磨きによって歯肉の中にたまった余分な水分や歯槽膿漏の原因となる菌を取り除くことが出来ます。